映画「ともしび」公式サイト » ディレクターズノート

監督:アンドレア・パラオロ

『ともしび』では献身といった思いに囚われ、不安や依存によってがんじがらめになってしまった、現実から目をそらす女性の悲痛な内面を描いています。アンナの葛藤に心を打たれるのは、恐らく、彼女に対して世間が許しを認めず冷たいさを感じとるから、あるいは自分自身とアンナとが重なる部分があると感じるからだと思います。言えるのは、この作品によって彼女の存在を近くに感じ、彼女の手を握り、励まし、不安を取り除きたかったということです。何より、彼女に目を向け、彼女の悲しみを感じ、独りで新しい自分を見つける彼女のもがく姿を、観客に目撃して欲しかったのです。

この作品には、一人の登場人物、もっと言うと一つのムードを重点的に観察することで、人間としての状態が見えてくるという確信が根底にあり、誰でも登場人物やストーリーの中に自分を”投影”することができます。私は、観客に自分自身を認識し、最終的には自分自身以上のことについても理解する機会を提供したいという願いを持っています。更に、アンナは個人と社会的アイデンティティ(この作品に関して言うと、夫婦のアイデンティティ)との間の境界線を探し求めています。この点は、「Medeas」(13/未)でも既に生じていた私の個人的関心の一つで、探求に値すると思っています。この作品では、主人公である夫が自制心を持つ必要性や、家庭内での自分の立ち位置を確認することができないことが根底にあり、悲劇を生みだしました。心の内で生まれる重要な衝突は、他人からの、そして自分自身からのプレッシャーによって生じるものです。「Medeas」とは対照的に、『ともしび』の中での衝突は、より一層内向きで、主人公の女性が自分自身のアイデンティティや彼女を取り巻く世間のアイデンティティを感じた時に頂点に達します。

脚本の段階、しかもオーランド・ティラドと一緒に書いた最初の一言目の段階から、シャーロット・ランプリングのことを想定していました。彼女は私のミューズでしたが、役を引き受けてくれるだろうと夢見がちに考えていました。初めてシャーロット・ランプリングを映画館のスクリーンで見たのは14歳の時でした。ルキノ・ヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』での突き刺すような彼女の姿に完全にひとめぼれしました。私はシャーロットに「Medeas」の本編と、『ともしび』の脚本を送り、その後パリで会いました。その時にお互いを認めるようになったと思います。彼女と一緒に仕事をすることでインスピレーションは止まらず、シャーロットの高潔さ清廉さも助け、真実を追求する芸術家に近づいたように思いました。

作品の中で、メタファーである漂着したクジラが登場します。実際、体が表す以上のことを想起させるのです。死にゆく、あるいはもしかしたら既に死んでいるかもしれない何かを反映しています。それにも関わらず、アンナの周囲ではクジラの話題は出てくるものの、アンナが最後に自分自身の目でクジラを目撃した時でさえ、アンナがクジラと自分自身を同一視しているのか、その自覚が彼女に本当にあるのか、確証が持てないのです。付け足すと、夫の収監を受けて彼女は心も精神も衰弱し、結果として自意識を喪失してしまいます。その様子は、彼女が自分自身を認識できない位にまで揺れ動かされる渦の中に飲み込まれるかのようです。

アンナの夫の罪を意図的に明確にしなかったのは、それによって映画の核心から注意を逸らしたくなかったからです。核心というのは、夫が逮捕されて去ったことでアンナは自分自身と折り合いをつけなければならなくなるということです。夫の罪の深刻さに気付くことは重要だと思いますが、一方で、罪に気を取られる余りに方向がずれていってしまうことなく、ストーリーの中心が依然として主人公の内面、彼女の当惑、絶望であるということが重要なのです。

「Medeas」と同様、35ミリでの撮影を選びました。観客との”感覚的”関係を構築したかったからです。35ミリは、デジタルでは少なくともまだ不可能な身体性を表現することができます。撮影監督のチェイス・アーヴィンと、通路や鏡が画面の外で重要な役割を担うように、内側と外側、物理性と精神性空間という概念により注目することによって、アンナと周囲の世界との継続する対話を反映させようとしました。脚本から撮影、編集まで、作品のあらゆる要素が合わさって、一つの同じ方向に向かおうとしているように思います。それはつまり、見せるよりも隠すことによって観客の想像を”掻き立てる”ような、引き算形式でのプロセスです。

この作品のモデルについて考えてみると、いくつか名前を挙げることができますが、それはむしろ答えを与えるよりも疑問が湧いてくるでしょう。ミケランジェロ・アントニオーニ、ルイス・ブニュエル、ミヒャエル・ハネケ、ルクレシア・マルテル、シャンタル・アケルマン、カルロス・レイガダス、ツァイ・ミンリャン、ジョン・カサヴェテス、ミケランジェロ・フランマルティーノ、タル・ベーラなど、皆非常に私的な言語を用いて、注意深く人間の状態の真実を明かしていきます。私はこれらの監督の作品を通して、自分自身や世界についての理解を深めることができました。言うまでもなく、『情事』『赤い砂漠』のモニカ・ヴィッティ、『こわれゆく女』のジーナ・ローランズ、『ブリュッセル 1080 コメルス河畔通り 23番地 ジャンヌ・ディエルマン』のデルフィーヌ・セイリグといった、映画史に残る、名匠による複雑かつ魅力的な女性像に影響を受けています。

恐らく、私が挙げた監督たちはアメリカで生きていくことを決めたイタリア人監督にとっては”主流”な名前だと思います。しかし、私はロサンゼルスに住んでいますが、それはアメリカ映画に傾倒するからではなく、アメリカにいて得られる自由によるものです。時が経つにつれて、”外国人”としての立ち位置にいるからこそ気楽にいられて、それが自分自身でいられる立ち位置なのだとますます実感しています。